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飯縄神社の御社殿 |
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奥社参道入口 |
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奥社参道入口鳥居前の広場は「飯縄神社社地」となっておりますので、奥社ご参拝の皆様は、どうぞご自由に駐車下さい。 |
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飯縄神社
飯縄神社(奧社)は飯縄山南山頂にあります。ここからは東南方遙かに富士山・浅聞山を、西北に戸隠連峰高妻・乙妻・西岳が、北に妙高・黒姫ほか信越の諸山、西南には日本アルプスの山々をと、文字どおり360度の展望を楽しむことができます。
社殿は木造ですが、伊勢湾台風で被害を受けた経験や、雪害対策と信者や登山者の安全を考慮して、鉄筋ブロック建ての建物の中におさめられてあります。山頂を取り囲む岩石上には、武田勝頼が再建したことがわかる武田菱の旧社殿(石祠)や、日本各地の霊山を祀った石祠が立ち並んでいます。
「延喜式」神名帳に所載されている皇足穂命神社は、水内郡で九座ありますが、当飯縄神社はもその中の一社です。御祭神は、大戸道命・大戸辺命と保食命の三神で、春の祭典は五月八日と六月五日です。奧社祭典は六月五日で頂上祭と開山祭があります。秋は十月八日・十二月八日です。
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奥社御本殿 |
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奥社御本殿内 奉納額 |
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中世の飯縄神社
当神社は早くから修験道と関係をもち、「阿娑縛抄諸寺略記」の戸隠寺の条には、学問行者が戸隠山を開くに先立って飯縄に登り祈念を行ったことを記されています。また戸隠神杜の古縁起「戸隠山顕光寺流記」(戸隠神社文書)にも嘉祥三年(八五〇)三月に、学問行者が初めて飯縄山に登り諸神の加護を請うたことを述べております。戸隠山と販縄山の修験の結付きは、既に平安時代にあったようです。また同記によれば、鎌倉時代に至って、戸隠の支配を離れて戸瞬修験とは別に飯縄大明神をもって「天狗」と唱え、いわゆる飯縄修験すなわち飯縄修法(飯縄の法)を行っていたことがわかります。飯縄の法を行う修験者は飯縄使とも云われていました。
飯縄の法は、飯縄大明神が変幻自在の天狗となって、あるいは六地蔵と現じて国土を回り、衆生を助け魔界をなくそうとすることを本旨とするものであったようです。またこの秘法には、その第一に「弓箭刀杖難来時、飯縄大明神八天狗奉祭可遁其難」とあるのをはじめ、戦勝の祈顛、赦滅の祈順、病患を除き寿命を延ぷるの秘法、一三ヵ条が口伝として列記されております。室町時代からその修法が広く信奉され、武将にもいたっていたことが知られています。『飯縄大明神の本地仏である銅造地蔵菩薩半廟坐像(飯縄神社旧蔵現在公明院蔵)』の背銘には、足利義満が幼児期成長がはかばかしくなかったが、飯縄大明神の加護によって任全無病の身になり、応安元年(一三六八)征夷大将軍に補任された御礼として、翌二年八月二二日生誕に延命地蔵菩薩を千日大夫に寄進した』と記されています。 |
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里宮 大鳥居 |
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明治以後の飯縄神社
明治維新の神仏分離・修験禁止令により社領百石も召しあげられ、神主仁科氏も、此の地を離れました。
明治六年五月社格制度制定で、飯縄神社は皇足穂命神社となり、郷社に列せられました。郷社の神社運営は、崇敬者と氏子が中心で行われる事になっておりましたので、従来の門前百姓を含めた氏子と芋井村が行っておりました。戦後の国家神道解体により、現在は神社庁管下の神社神道の神社として、所在地の荒安地区の氏子と全国に散らばる崇敬者によって運営されております。(参考 平凡社 長野県の地名) |
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里宮 拝殿 |
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